先日の久間大臣の発言について、アップ時のアクシデントでやる気を殺がれていましたが、やはり気になって続きを書かねばと思いました。内容は先日と違ったものになってしまいましたが。
首相も厳重注意をしたそうですが、その後も与野党内部、被爆者団体などから抗議や辞任を求める意見が相次いでいます。
確かに、防衛相というポストを考えると、軽率であり、個人的にも辞任も止むを得ないかとも思います。全く、この時期に・・・!安倍首相も閣内からの相次ぐ問題に、何ともやりきれない思いだと思います。組閣の問題もあるかも知れませんが、もう日本の政界には昔のような人材がいなくなってきているのではと、違う意味でも心配になってきました。
さて、西村幸祐氏のブログの中で、久間大臣は「「原爆は仕方がない」と言ったそうだが、久間発言を批判するサヨク旧メディアや反原爆運動家ほど滑稽なものはない。なぜなら、戦後62年間、久間大臣と同じ事を言ってたに過ぎないからだ。」という一節がありましたが、いつもながら鋭い指摘だなと思いました。
資料館展示見直しに中韓の声 (中国新聞 '07/5/31)
原爆資料館(広島市中区)を運営する広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は30日、館の展示内容を見直す検討委員会に、中国、韓国人らアジア出身の委員を起用する方針を明らかにした。リーパー理事長は中国新聞のインタビューに、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」と述べた。
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既に、久間大臣と同じような発言は5月31日に、広島平和文化センターのリーバー理事長からされているのです。久間氏とリーバー氏とどこが違うというのでしょうか?サヨクマスコミも、野党も、久間氏を批判するのであれば、同様にリーバー氏にも抗議なりをすべきではないでしょうか?
2日に開かれた長崎市議会では、久間氏の平和祈念式典出席拒否や罷免を求める声などが上がったといいますが、長崎市民の被爆地の市民としての心情は理解はできても、ではなぜリーバー理事長のこの発言には何の異論も挟まなかったのかということについては理解できません。
やはり、どこかが歪んでいると思います。
昨日阿比留氏のブログに原爆投下とソ連参戦についての過去記事の紹介がありました。とても長い引用でしたので、その一部のみを紹介したいと思います。
《【検証「戦後日ソ」の原点】(10)宣戦布告繰り上げ [ 1993年10月14日 東京朝刊 社会面 ]
一九四五年(昭和二十年)八月八日、モスクワ時間の午後五時(日本時間午後十一時)、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武・駐ソ日本大使に対し、いきなり対日宣戦布告文を読み上げた。
当時、駐モスクワ日本大使館の三等書記官だった法眼晋作氏(八三)=後の外務事務次官、国際協力事業団総裁=が佐藤大使から聞いた話によると、宣戦布告文の中に「早く戦争をやめて平和な世界にしたい」という趣旨の文言があった。佐藤大使が「それなのに、日本と戦争をするとは、どういう意味か」と聞くと、モロトフ外相は「文面全体からわれわれの意をくみとってほしい」と答えたという。
佐藤大使らはすぐ、この宣戦布告文を東京に打電したが、なぜか届かなかった。日本政府に公式に伝えられたのは二日後の十日、東郷茂徳外相とマリク駐日ソ連大使の会談の席であった。
《連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢献スルタメソ連政府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出テタリ…ソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス》
一方的に日ソ中立条約を破っての対日宣戦布告。ソ連はなぜ、この日(八月八日)を選んだのか。当時のトルーマン米大統領は回想録にこう書いている。
《モロトフは八月八日ハリマン(駐ソ米国)大使を呼び、ソ連が八月九日、日本と戦争状態にはいると通告した。この動きに私は驚かなかった。米国が日本に原爆を投下したために、ソ連は極東における自己の位置を考え直したのである》
この「原爆がソ連の対日参戦を急がせた」という考え方は今も十分な説得力をもって通用している。
防衛庁幹部学校研究員、井上要氏の研究によると、ソ連は同年六月末、対日戦略基本構想を決定した段階では、対日攻勢開始時期を「八月二十-二十五日」と予定していたが、スターリンはポツダムに到着した七月十六日、チタの極東軍総司令部のワシレフスキー元帥に電話を入れ、「対日攻勢開始時期の十日間繰り上げ」を要求している。この日(七月十六日)は米国のニューメキシコ州での原爆実験が成功した日でもある。
「スターリンはこの時点で米の原爆実験成功の情報を知り、それが対日攻勢時期の繰り上げにつながった」と井上氏は見る。
そして、八月六日、広島に原爆が投下され、翌七日、ソ連軍最高総司令部は対日参戦日を「八月九日」と決定している。
しかし、坂本夏男・前皇学館大教授は「原爆よりも、ヤルタ協定が深くかかわっている」と“原爆説”に異論を唱える。
同年二月、クリミア半島のヤルタ近郊で米英ソ三国首脳はソ連の対日参戦時期について「独ソ戦終結後、二-三カ月以内」という密約を交わし、その独ソ戦は同年五月八日に終結している。
一方、終戦時、駐モスクワ日本大使館の二等書記官だった油橋重遠(ゆはし・しげとう)氏の回想録「戦時日ソ交渉小史」(霞ケ関出版)には、次の記述がある。
《モロトフは、八日午後八時(日本時間で八月九日午前二時)に会見する旨回答してきたが、暫くして先方の都合で会見時間を午後五時(日本時間で八月八日午後十一時)に改めたい旨を電話してきた。日本側としては一刻でも早いに越したことはないので、それに同意した》
坂本氏は「八月八日(日本時間)は独ソ戦終結から数えて三カ月以内の期限ぎりぎりの日にあたる。ソ連はそのヤルタ協定のデッドラインを忠実に守り、領土(南樺太、千島列島)獲得を確かなものにしようとしたのではないか」と見る。
この“ヤルタ説”を補強する資料はまだある。
五月二十八日、スターリンとの第三回会見を終えたホプキンズ米国特使の電報《八月八日までには、ソヴェト陸軍は満州の各戦略地点において適切に展開されるでありましょう》
八月十六日、チャーチル英首相の下院での演説《私の見解ではロシアの対日参戦が原爆の使用によって早まったという説は誤りである。私はスターリン元帥との会談(ヤルタ会談)で、かなり前から、ロシアがドイツ降伏から三カ月以内に日本に宣戦布告するだろうと判断していた》
スターリンの真意を知るためには、新たなソ連側記録の発掘が待たれる。 (日ソ問題取材班)》
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歴史は難しいです。私自身、自国の歴史についての無知に愕然とします。
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